金沢文化スポーツコミッション

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STORY

囲碁と加賀藩

茶の世界や他の芸事に家元があるように、囲碁では、江戸期を通じ、本因坊、安井、井上、林の四家の家元が、プロとしての活動を許されていました。茶の千利休、能の世阿弥とも並び称される初代家元「本因坊算砂さんさ」(日海上人)は、加賀藩と深い「碁縁」があったのです。「本因坊第一世算砂の碑」が、兼六園の南、金沢市本多町の日蓮宗本行寺ほんぎょうじの境内に佇んでいます。この碑は1925年、地元の囲碁愛好家(本因坊算砂遺跡保存会)らによって建立されました。碑銘は、本因坊最後の世襲制家元「本因坊秀哉しゅうさい」の揮毫によるものです。


信長、秀吉、家康に仕えた算砂さんさ

本因坊算砂

日海上人は1559年、京都に生まれ。天下随一の囲碁の腕前から、信長をして「名人」と言わせしめ、秀吉から「日本一」という称号の朱印を授かり、四石こくを与えられました。家康は将軍の時代となると、本因坊算砂と改名させて幕府の碁所ごどころに任じ、将軍の指南役を務めさせました。算砂の果たした役割は大きく、囲碁を、貴族や僧侶の遊興から庶民に流布しました。その後、本因坊は棋道の家元の姓となり、門弟によって代々襲名されましたが、二十一世秀哉しゅうさいは「真の実力者が名乗るべき」としてその名跡を日本棋院に譲り、1936年、今に続く選手権制の「本因坊戦」が誕生しました。


利常の指南役として金沢へ

本行寺(金沢市本多町2丁目)

1615年、算砂は加賀藩三代藩主・利常によって指南役として金沢に招かれました。利常の対局相手をしたり、利常の御前で地元の強豪と対局しました。算砂は当時、京都の寂光寺住職も兼ねており、3年の滞在中、たびたび京都と金沢を往復しましたが、お抱えの碁打ちは、一度利常との対局などが始まると、その間城外へ自由に出入りできないことから、「碁打ちは親の死に目にも会えない」の言葉ができたといいます。後世では、碁に興じるあまり親の死に目にも会えないと解釈されることが多くなりましたが、前文が本来です。京都に戻る時、算砂は利常から礼として寺屋敷地3千歩(約4千坪)を与えられ、現在の金沢市本多町に本行寺を創建し、初代住職に就きました。寺は後に3度焼失し、現在の建物は富山県高岡市から移築されたものです。


出典 : 寂光寺だより, 寂光寺由緒書, 本行寺由緒書 / 監修 : 佃優子

このストーリーは2019.7.12〜15に開催された第4回ジャパン碁コングレス2019 in 金沢でご紹介しました。